1336年、京都を制圧した足利尊氏は、持明院統の光明天皇をたて、幕府を開く目的のもとに、当面の政治方針をあきらかにした建武式目を発表した。
このようにして建武の新政は、わずか3年たらずで崩壊した。
後醍醐天皇は京都をのがれ、吉野の山中にたてこもって、正統の皇位にあることを主張した。
ここに吉野の南朝と京都の北朝が対立して、以後約60年にわたる全国的な動乱がはじまった。
南朝側では動乱の初期に楠木正成・新田義貞が戦死するなど形勢は不利であったが、北畠親房らが中心となり、東北・関東・九州などに拠点をきずいて抗戦を続けた。
北朝側では1338年に尊氏が征夷大将軍に任ぜられ、弟の直義と政務を分担して政治をとった。
しかし漸進派の直義を支持する勢力と、尊氏の執事高師直を中心とする急進的な勢力との対立がやがて激しくなり、ついに1350年に両派は武力で対決をはじめ、各地で争乱に突入した。
直義がやぶれて死んだのちも抗争は続き、尊氏は、もとの直義派、南朝勢力の三者が十年余も離合集散をくりかえした。
このように動乱がながびき、全国化した背景には、すでに鎌倉時代後期ごろからはじまっていた大きな社会的変化がよこたわっていた。
こうした変化は各地の武士団の内部に分裂と対立をひきおこし、いっぽうが北朝につけば反対派は南朝につくという形で、動乱を拡大させることになった。
この変化は血縁的結合を主とした地方武士団が、地縁的結合を重視するようになっていくことでもあった。
同時に武士の支配に抵抗する、農村の共同体の形成も進んでいった。